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桔梗塚・行徳岩・産湯の井戸跡

歴史のミステリーに迫る!明智光秀生誕&生存説の地でロマンを感じよう!

光秀は生きていた!荒深姓が語り継ぐ歴史のロマンがここにある!

明智光秀が生まれた場所についてはこれといった資料がなく、美濃の出であること以外は謎に包まれています。
そんな中、山県市の中洞地区では、光秀はこの地で生まれ、その後、明智城主・明智光綱の養子となったと古くから伝えられています。
この地区を流れる武儀川には「行徳岩」という岩もあり、そこでは光秀の母が懐妊したとき、「生まれる子が男の子なら、3日でよいから天下を取るような立派な男の子を授けてください」と祈ったという言い伝えもあります。

それだけでもロマンがある話なんですが、この地には生誕説だけでなく、実は生存説も存在しているんです!
一般的には、光秀は山崎の合戦後、坂本城に帰還する途中で討ち死にしたといわれています。
しかし実はこの時死んだのは「荒木山城守行信」という影武者であり、光秀は生きていて生まれ故郷である中洞の地に落ち延びて住んでいたという伝承があるんです!

荒木山城守の忠義の深さに感銘を受けた光秀は、その後荒木の「荒」と恩の深さの「深」から「荒深」と姓を変え、荒深小五郎と名乗って中洞で暮らしました。
やがて時が過ぎ、関ヶ原で合戦があると聞きつけた光秀は、徳川方に従軍するために出陣します。
しかし関ヶ原前夜は大雨。
光秀は途中の藪川(現・根尾川)を馬で越えようとしたとき、なんと洪水に巻き込まれ溺死してしまったとのこと!
悲しみに暮れる従者たちは光秀の遺品を持ち帰り、故郷である中洞に墓を建てたと伝えられています。

その地は明智家の家紋である「桔梗紋」にちなみ、「桔梗塚」と呼ばれて現在まで守られてきました。
桔梗塚周辺では今でも「荒深」の姓の人が20名ほど暮らしており、荒深の人々によって年に2回(4月第2日曜日、2月第1日曜日)供養祭が行われているんです。
その供養祭は光秀死後、なんと400年に渡って綿々と引き継がれているんです!
なんともロマンのあるお話ですね。(供養祭は見学自由)

白山神社で産湯の井戸&境内にある桔梗塚で光秀のお墓を参ろう!

国道256号を北上してトンネルを抜けた先に「桔梗塚入口→」という看板があり、そこを右折して突き当たりを左に行った先に臨時駐車場があります。
駐車場にはトイレはないので事前に済ませてくるか、徒歩で170m南にある「ウェルかも美山」さんまで行く必要があります。
臨時駐車場から桔梗塚がある白山神社までは、小さなトンネルをくぐって徒歩約3分です。

白山神社の境内に入るとまず目に入ってくるのが「光秀公ゆかりの産湯の井戸跡」です。
ここで光秀の母が、産湯の水を汲んだとされています。
神社の奥には阿弥陀堂があり、その中には光秀公のご位牌も祀られています(供養祭の時のみ公開)。

「桔梗塚」は神社に隣接する林の中にあります。
入口には小さな橋がかかっており、階段を登っていった先に「光秀公のお墓」と「五輪塔」があります。
そこは静かな木々に囲まれ、とても安らかな空間です。
波乱に満ちた生涯の光秀でしたが、生まれ故郷のこの安らかな地で眠っていると思うと少しホッとしますね。

ドラマの影響もあり、今では全国から多くの光秀ファンが訪れています。
戦のない平和な世を願って奔走し続けた明智光秀。
彼の意志は、荒深の姓とともに今でのこの地に息づいているんですね。


2021.03.19

INFORMATION

名称
桔梗塚・行徳岩・産湯の井戸跡
所在地
岐阜県山県市中洞1020番地 中洞白山神社
お問合せ
0581-22-6831(山県市役所まちづくり企業支援課)
女性のイラスト
大河ドラマの影響で明智光秀のことが好きになったんですが、まさか僕の住んでる山県市に生誕と生存説があったなんてほんと驚きでした!これまで光秀って「裏切り者」のイメージがあったと思うけど、よく考えてみるとその生涯は資料も少なく多くの謎に包まれていて、もしかしたらその後の権力者に意図的に歴史から抹消されたり捏造されたりした可能性もあると思うんですよね。そう考えると、荒深の人々が細々と口伝で伝えてきたこの伝説は、考えただけで歴史ロマンを感じます!桔梗塚ではぜひ、そんな光秀の息吹を感じ取っていってほしいですね。