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四国堀跡・六萬墓・千人塚

大桑城の城下町を偲ばせる遺構が多く残る大桑地区!当時に想いをはせて歴史散策!

土岐氏が大桑城を防戦するために築いた"四国堀"


山県市大桑地区には、明智光秀のルーツだとされる美濃国守護土岐氏が斎藤道三に敗れるまで拠点としていた大桑城がありました。
そして、現在の市場、椿野、市洞にあたる場所には、大桑城の城下町が広がっていました。
城下町の入口には「四国堀」、「越前堀」、「外堀」と、町を守る大規模な設備が築かれていたことから、大桑城は堅固な城であったことがうかがえます。

また、当時の美濃国は隣接する越前国と交流が盛んであったと言われています。
それは、大桑城跡や城下町に残された遺構が、越前朝倉氏の一乗谷と似たような特徴がたくさん見られることによります。
例えば四国堀跡は、大きな堀や土塁によって城下町の内と外を分ける"総構え"と呼ばれる構造になっており、これは越前朝倉氏の一条谷城下町に習ったものだと考えられています。

土岐氏が周辺諸国と関係が深かったことの証がもう一つ。
"四国堀"という名前は、越前、尾張、伊勢、近江の四つの国の加勢を受けて築かれたことに由来しています。
ここからも、当時の土岐氏の勢力の大きさを伺い知ることが出来ます。

四国堀跡があるのは、山県市自主運行バス・ハーバス「椿野」バス停のほど近くです。
堀は深さ5m、幅約8mで、土塁の長さは約100mに及び、堀の底に降りてみると、簡単に駆け上がれないよう土塁にはするどい角度が付いるのを感じることができますよ!

斎藤道三との激戦を今に伝える"六万墓"

土岐頼芸と斎藤道三の戦いは天文11年(1542)に始まります。
大桑城は道三に攻められ、市場、椿野、市洞のほとんどが激しい戦いの場所となり、多くの死者が出ました。
その時の戦死者の骨は、土岐氏の菩提寺でもある南泉寺の仁岫和尚が焼香を行ったとされており、後に「六万墓」の石碑が立てられました。
"六万"という数字はそれほど多くの人がこの地の合戦に巻き込まれたという意味が込められています。

六万墓は四国堀跡のすぐ近く、「インディアンビレッジ・TWO-SPIRITS」に向かう道中にあります。

時が経っても激しい戦いをしのぶ"千人塚"

六万墓を東へ進み、インディアンビレッジ・TWO-SPIRITSの店舗を過ぎたあたりにも「千人塚」という戦死者を弔うための石碑が残っています。
ひっそりと佇んでいるので、何も知らずに通ると見落としてしまいそうな石碑ですが、こちらも江戸時代の寛政3年(1791)に村人たちが、天文11年の戦いで多くの人が亡くなって250年経ったことで再度戦没者を弔うために建てたものです。

土岐氏は敗れ去りますが、山県の地に夢と文化を残した一族であることには変わりありません。
多くの史跡が住人の手によって守り続けられていることからも、この土地の人々が土岐氏へ抱くの畏敬の念を感じます!

四国堀、六万墓、千人塚は、歩いてすぐに回れる近い場所にあるので、地図を片手に歴史散策するのにもってこいの場所ですよ!


2021.05.11

INFORMATION

四国堀跡
所在地/岐阜県山県市大桑栢野地内
電話/0581-22-6845 (山県市教育委員会 生涯学習課)


六万墓
所在地/岐阜県山県市大桑栢野地内
電話/0581-22-6845 (山県市教育委員会 生涯学習課)
駐車場/1台

千人塚
所在地/岐阜県山県市大桑栢野地内
電話/0581-22-6845 (山県市教育委員会 生涯学習課)
男性のイラスト
大桑地区は戦国時代には大桑城の麓にあった城下町で、当時は堀に守られた武家屋敷が並んでいたそうです。“市場”や“高札”という地名が今でも残っているのは、商人や職人を集めて市場が開かれていたり、幕府からの命令札を立てる場所があったりと、この地が栄えた城下町であったことの名残でもあるのかなと思っています。大河ドラマ『麒麟がくる』でも登場した「大桑城」跡では現在も発掘調査が進められており、“土岐氏最後の居城・大桑城”と書かれたのぼりもたくさん立って注目度も高まっています!大桑地区には南泉寺や十五神社、取矢神社など土岐氏とゆかりの深いスポットがまだまだ盛りだくさん。当時に想いを馳せながら散策すると楽しいですよ♪